認知能力の差と会話の質

よもやま話

人の性格は、優しい、短気、卑屈などなど様々な言葉に翻訳されています。 

最近、それらは単一の指標で説明することはできないものか?と思い立ち空想しています。

例えば電子機器の音量の調節は一つの変数をいじるだけで行えます。多種多様な音の高低も周波数だけで調整できます。

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認知能力が会話の質を変えている説

行動遺伝学の知能格差についてを見てから
視座の違い→性格の違い→会話の違い
と視座≒認知能力、という仮定なら説明できる部分は多いのじゃないかと感じています。

一年周期で起こる梅雨や台風の季節を認識できる人とそうでない人とでは話は噛み合いません。
梅雨や台風に備える人の行為はそうでない人には理解できませんから、きっとそれは目先の収穫量を減らすバカげた行為に見えるだろうと思います。

古代の占い師が星の配置の周期性から天候を予測していたように、認知能力に優れている人はミクロの規則性から導かれる連鎖反応を元にマクロの未来を予言します。

つまり、認知能力≒知能という側面があり、それがコミュニケーションの質に甚大な影響を与えているのではないか、ということ。
それが性格。

例えば歴史の規則性を年表から推理する場合、俯瞰する期間により、”誰が”または”何が”歴史を動かしているのか、の結論には差が生まれます。

人の一生程度にのみ期間を区切る場合と文明を一つの期間として区切る場合ととでは、そこに起こる現象に与える文脈の主語が異なります。
前者の場合は、時代の統治者に問題の責任を求めます。つまり、政治です。
一方で、文明の波を単位として見るなら、群集心理や経済など別の法則性を見出すことができます。

ヒトラーなどのポピュリストの登場にどう文脈を与えるのか、と考えると分かりやすい。

歴史を俯瞰すると、民主性におけるポピュリストの台頭は古今東西に見られる普遍的な周期によって説明できます。
個人の意思とは無関係な、経済現象や群集心理の帰結として、ポピュリストが物語に登場してきます。

一方で期間を短くとる場合は、個人の意思に責任を求めるこしかできません。例えばヒトラーやナチスにその責任を求めてみたり、ディープステイトという概念を創造し、その組織の意思という形から陰謀論を導いてみたり。

視座の違いが性格を規定し、それが会話の質に強く影響しているのではないか、という結論。荒いですが。

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Die Hard – ダイ・ハード
この記事を書いた人

第41第東洋太平洋(OPBF)ウェルター級王者
元WBC世界同級34位
元WBO-AP同級3位
元角海老宝石ジム所属

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