因果関係による人の認識を抽象的に説明すると、前提が真なら常に結論も真となるよな命題の組合せと言えると思います。で、因果関係は原因と結果を勝手に結びつけて認識すること。
因果関係による認識
認識の例
例)
押した、だから動いた
押した=A,動いた=B
A→B(含意)
外部から力が加えられた、だから動いた
運動量がAからBに移った、だから動いた
エネルギーがAからBに移った、だから動いた
【補足】
運動量、エネルギーという概念は数と同じで実存があるのではなく、人の認識によって世界を説明しようとした時に、それがあると仮定すると説明を簡単にしてくれる、あくまでも便利な空想です。
古典力学は、人の認識が原因と結果を結びつけて導きだした結果出来上がった仮説で、ある大きさまでなら観測した事実と、理論から演繹した結論が一致します。
しかし、観察の対象が極端に小さくなると距離や時間、因果関係といった人の認識の尺度では説明が困難になってしまうようです。人の認識が時間、距離、因果関係といった”概念”に縛り付けられられているからだと思います。そんなものが真にあるかどうかは人には分かりません。人が世界を認識する上であると仮定したものです。人は人の認識しか知らないし理解できないだろうと思いますので、仕方がないのでしょうが。
閑話休題。
先人は人の認識の要件を満たすだろうと思われる最小の演算¬∨∧を定義しました。
コンピュータの演算は大まかに論理和と論理積で行われます。つまり、2進数に直せば人の認識の最小単位で加法、乗法、減法などの演算が可能なわけです。
例えば数学の自然数の加法では1+1=2です。
2進数ならこの加法を1∧1⇔10で表現できます。論理積はいずれも1の場合に1を返します。
論理積に入力された2つの値の演算結果が1だった場合は、桁を繰り上げて10と表現し、これを10進数の2と定義します(排他的論理和)。
0=0
1=1
10=2
11=3
加法は他の四則演算と関係していますから、高度な数学も全て人の認識を最小にした論理演算の規則性の元で行われていると考えることができます。
妥当性の認識
証明の規則である妥当性は人の認識を抽象化したもので、この枠組みの元で自然演繹のシステムは作られたはずだと僕は思います。
下の健全性の定義は妥当性って前提から導きだせる定理のような気がするんです(証明はしてないけど)。
ダラダラと長くなりましたが、数学の証明に用いられる健全性や完全性などは妥当性って人の認識を運用する為に、というか前提が真なら結論も真って妥当性を足場として、つまり妥当性から演繹された定理を推論規則や種々の概念として定義してるじゃない?ってことですね。全て妥当性の子どもみたいに感じで。
数学が今の形、一見すると意味不明な定義になっているのは、こんな文脈があるんじゃない?って僕なりの解釈です。
現時点での僕の知識では、数学の意味不明のルールや概念もこの前提からなら解釈しやすいんです。
健全性(けんぜんせい、英: Soundness)は、論証が次の属性を持つことと同値である。
Wikipedia
その論証は妥当である。
その前提の全てが真である。
コメント