証明の確かさって一体どう定義されているのだろうと思い立ってネットを彷徨、妥当性や健全性って定義に行き着きました。
確認が終わったところで、どうしてそれが正しいと仮定されたいるのかと再び疑問が浮んでネットを再び彷徨。一応の解釈に行き着きました。
一旦ここまでの話を一言でまとめると「人の認識が出発点であるって文脈で論理学の理解を試みよう」です。
もう少し言及すると。推論の妥当性や論理演算の定義はそう決められたものとして、そのまま受け入れてしまうのは簡単だけど、それでは気持ちが悪い。心が納得しません。何故そうなったのかという説明がほしい。
というわけでそれらの出現に文脈を与えようって個人的な試みをしています。
認識のパズル=演繹
公理と演繹
「aならばb」
この認識を抽象化して一般化したのが論理包含。
a→b
前件aが真かつ前件aが偽となれば、真となる規則。これは恐らく人の認識「a(真)ならばa(真)」を拡張して一般化したものです。
また、∨,∧,→,¬などの論理記号は人の認識の規則だけ抽出して記号で表したしたもの。
これらの決められた規則に従い、パズルのように演算を組み合わせて、結論を導いていくのが数学と論理学。
ただ、材料(演算規則)だけ用意しても役に立ちません。それを乗せる大地(前提)が必要となります。
それが公理です。公理も疑うことの許されない、正しいと仮定されるもの。
大地(公理)として定義した地形に上記の柱(論理演算)を複雑に組み合わせて、大地の形を変形させていきます。これを演繹と呼び、その完成品が定理とか理論とか呼ばれます。
この完成した構造に情報を流し込むとそれが加工されて返ってきます。その加工品を他の構造に流し込めば、別の形に加工されて情報が出てきます。
公理から演繹して理論を創り上げ、その理論から演繹して新たな理論が作られます。元々の形は公理です。
人の認識を形にした積み木を積み上げて、高度な建造物を構築していくようなイメージですかね。
構文論と意味論
構文の意味を度外視し、どんな論理構造になるかだけに着目するのが構文論で、その構文が帯びる意味を考えるのが意味論と呼ばれるようです。
とりあえず積み木を積み上げては行くけど、意味は考えないのが構文論。
その積み上げられた構造に意味を見出そうとするのが意味論。
数学パズルの天才が公理を元に構築した謎の構文が後々意味を帯びてくるみたいなことですね。
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