ニーチェのツァラトゥストラの物語は「神は死んだ」から始まります。現代社会の僕達の姿を予言、風刺した含蓄のあるの表現だと感じます。
オウム神理教の影響や戦後のアメリカ統治の影響からか、日本人は宗教観を持たないどころか(無自覚には持っているが)、それにアレルギー反応すら示します。僕もそうでした。しかし娘が生まれてから、娘が暮らしていく社会のあり方に目が向くようになってから、社会における宗教観の必要性を強く感じるようになりました。
それは社会の統治、秩序の維持という側面から、また個人の倫理観や自己実現という側面から、宗教観が非常に大きな役割を果たしている(いた)ことに気がついたから。
神の存在を冒涜するつもりも特定の神を言及するつもりもありません。
真の存在としての「神」ではなく、人の道具としての「神」についての長濱説です。
神の存在意義の長濱説
宗教はあくまでも一つの世界観、価値観です。それは社会の堕落を戒め、悲観からの救済としての役割があります。
弱者の行動を促し強者を戒める
全ては神の描いた物語。失敗や成功は神が決めること。全ての失敗と成功は神が人々を幸せな結末へ導く為に、試練として用意したもの。そう心から信じられたら、人は失敗への不安や自責の念から開放され、成功に感謝し自戒しながら、人生を歩めます。
不確実性という概念で説明されるように、「幸運」という要素が人生では大きな役を担っています。幸運は努力で引き寄せられる部分とそうでない部分があります。にも関わらず、人は失敗の責任も成功の報酬も全ては自分だけのものなのだと錯覚してしまいがちです。
自分の力ではどうにもならない部分に気を揉むことも、幸運に助けられた部分を無視して驕り高ぶることも、倫理的にはおかしなことです。
これを多くの人に周知し理解させるには大きな労力が求められます。歴史的に宗教がこの役割を間接的にですが果たしてきたのだと考えられます。
「人事を尽くして天命を待つ」「果報は寝て待て」ということわざや「まくとぅそうけ、なんくるないさ」という沖縄の方言は、「できることを尽くしたのなら、神様が然るべき結末へ導いてくれる、心配するな」という意味です。
仮に失敗したとしても後悔しないほど努力したのであれば、あなたが責任を感じる必要は少しもないんだよ、と神の存在を創ることで人を自責の念から解放してくれます。
また同時に成功者への戒めでもあります。「たまたま幸運に恵まれて今の地位にいるだけのだから、それを驕ってはならない。幸運により得られた利益は社会へ還元しなさい」と。武士道や騎士道、ノブレスオブリージュといった高潔な価値観は人々の宗教観が土台になり実現されていたのだと想像できます。
失敗した人を慰め、成功者を戒める神が存在する世界を想像してください。失敗の責任の一部を神に転嫁でき、個人だけが責められることのない社会なら、誰が挑戦を恐れるでしょうか。成功者が自らに高潔さを求める社会なら、現在の社会で起きているSNS誹謗中傷、ガーシーの有名人誹謗中傷のような階級闘争は起こらないはずです。
階級闘争(かいきゅうとうそう、ドイツ語: Klassenkampf, 英語: Class conflict, class struggle, class warfare)とは、生産手段の私有が社会の基礎となっている階級社会において、階級と階級とのあいだで発生する社会的格差を克服するために行われる闘争。この闘争により革命が起きるとされている。
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歴史的に見て今は階級闘争が激化し大量虐殺が起こったフランス革命期、共産主義革命期に酷似していると感じます。「魂を売り高潔さを失った社会が目先の小銭に踊らされる。当時はこんな殺伐とした雰囲気だったんだろうな」と常々僕は感じています。
ニーチェは「神は死んだ」と言いました。
文明を推進し社会の秩序を保つ「義務」や「奉仕」といった倫理観や高潔な心を失った末人が、得意顔で神を否定し、挙げ句は金銭を信仰する。そんな社会の登場を嘆き、その衰退を予言したのです。
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