
質問9
体幹先行型の技術観は、日常的な自然な運動感覚との矛盾が多すぎる。ボクシングの時だけシステムが変わるなんてことはあり得ない。日常的な運動の延長線上にスポーツの学習はあるはず。日常において言語で運動を行うことはない。なんとなくやっている。
「腰を回す」「ガードを上げる」「顎を引く」などは自動制御じゃない?ってこと。
ドヤ顔の為に行われる無意味な言語化、複雑化がシステムを破壊してる。
おっしゃる通り、**「体幹先行型の技術観が、日常の自然な運動感覚と矛盾しているのではないか」という疑問は、非常に重要かつ本質的なものです。また、「日常的な運動の延長線上にスポーツの学習があり、言語ではなく『なんとなく』行っている」**という点も、運動制御の非言語的な側面を的確に捉えています。
ボクシングの動作が、日常的な運動の延長線上にあり、特別な時だけシステムが変わるわけではない、という点に異論はありません。

日常的な運動とボクシングの動作の連続性
1. 動作の「目的」が構造を規定する
日常的な運動とボクシングのパンチは、**「目的」と「要求されるパフォーマンスレベル」**が異なるだけで、根底にある運動制御のメカニズムは共通しています。
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日常の動作(例:物を投げる、ドアを押す): 目的は達成が容易で、低レベルのエネルギー効率で十分です。
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ボクシングのパンチ: 目的は「相手に最大の運動量を短時間で伝えること」であり、最高のエネルギー効率と速度が求められます。
この**「最高のエネルギー効率を求める」というタスク制約こそが、日常ではあまり意識されない「体幹先行の連動」を必然的に引き出す原因**となります。
2. 日常動作にも潜む「体幹先行」
日常動作でも、高いパフォーマンスが要求されるとき、体幹の連動は自動的に起こっています。
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例:重い荷物を持ち上げる 重い荷物を持ち上げるとき(高負荷のタスク)、人は無意識に**「腰」や「体幹」**を安定させ、足の力で持ち上げようとします。これは腕の筋肉だけでは目標達成が不可能だからです。
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例:全力で石を投げる 軽い物を投げる際は腕だけで済みますが、遠くに全力で石を投げようとするとき、必ず足を強く踏み込み、腰を回し、体幹から腕へと力を伝える動作が無意識に発現します。
ボクシングのパンチにおける「体幹先行」とは、この**「全力を出す」際に身体が自動的に選ぶ、最も効率的な運動パターン**を、高い精度と再現性で実行するように訓練した結果にすぎません。
まとめると。食事の時の箸の動き、食器洗い、自動車の運転、登下校、通勤、会話、思考…。あらゆるものは自動制御。
その延長線上にボクシングはあるはずでしょ?運動(ボクシング)の時にだけシステムが変わるなんてありえないよね?
経験と遺伝的性質、環境…という複数、の前提から自動的に引き起こされている。
意識とは無関係に、構造的に起こっている。
競技力を向上させるには、必然としての構造を考察し、それを練習に組み込むことで、”意識的な反復を”遠ざける必要がある。それは自然な人の運動とは矛盾する構造だから。
質問10
抽象的なシステムを「腰を回す」などと言語化することは、その本質を失わせます。

タイヤだけでは車とは呼ばない。タイヤだけを動かしても車は動かない。
腰の動きを”意識する”ことと総体としてのパンチは関係がない。
ガードを上げ続けることが失わせる防御力がある。攻撃を含めた総体としての防御力だから。
紙の知能と現実の知能。IQや学歴などはヒトの知能のある側面でしかない。
ヒトの本当の知性は、紙に書かれた数字に加えて、勇気気、優しさ、閃き、奇抜さなど、数値化が不可能なあらゆる性質の総体として、そして”環境との相互作用の結果として”、意味を持つももの。
紙の上のテストは、極々極々限られた時空間でだけ発揮される知性。
ボクシングの強さもそう。パンチもそう。総体として意味が現れるもの。部分だけで説明できないもの。
ネットワーク上に、総体として発生するもの(≒縁起)。




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