下の記事でクソリプが論理的に破綻していることの証明とクソリプが起こる原理を推理した次は、そこから得られる教訓を抽出します。
この経験からは「自らの間違いを認められないことが生み出す損失」と「その原理」が抽象されると思います。
矛盾を肯定するには、さらなる矛盾を重ねるしかありません。
嘘が次の嘘を導いてくる論理は、みなさんも幼い間に嫌と言うほど体験したはずです。きっと、それで親に叱られる痛い目にもあったでしょう。
大人になっても尚、嘘に次の嘘を導かせる嘘つきを見るのは悲しいですよね。自らが自らを苦しめる負の自己強化。一時的には心は守られるのかも知れませんが、長い目で見るなら心は壊れるだろうと思います。
「間違えた」と感じたら前言撤回、方針転換を行う勇気を大人の男なら持つべきです。間違いを隠す為に嘘をつくなんてのは馬鹿げています。
それは自分で自分の首を絞める行為。そんな大人にはなって欲しくないからこそ、子供の内に親は子供の嘘を徹底的に戒めるのです。
僕はこの、間違いを認めたくない大人の心こそが、社会に溢れる諸悪の根源であるとすら感じてしまいます。
仮にこのブログを過去まで遡るなら、今の僕の主張と整合しないことなんてのは山程あるはずです。間違いを次の日に訂正したこともあります。
僕は間違いを守る為の嘘に価値はない信じます。そうではない可能性も否定はしません。嘘が上手い奴もいます。しかし、少なくとも僕にとっては、嘘に基づく嘘は、自らの損失を膨らませる愚行であると自分へ言い聞かせています。
僕は間違えることは悪いことだとは考えません。失敗を恐れる無責任こそが悪だと信じます。
「間違える」「間違えた」ことが愚かなのではく、それを認める勇気を持てないことこそが、愚かで弱虫だと僕は感じます。
仮に僕の過去の何かが、僕の今と将来の利益を保障するのなら、それは徹底的に守ります。しかし、そうでないなら、自らを奮い立たせてそれは切り捨てます。
知識や物だけではありません。
時にそれが人であったとしても、非情な判断が求められることはあります。
誰かが前へ進もうとする僕の足引っ張っていると感じたのなら、それが将来に損失を生み出すと予想されるのなら、勇気を持ってそれを切り捨てなければならない時もあります。共倒れこそ、最も避けるべき展開だから。
そうやって非情な判断を下すことは、僕の限られた資本を本当に守らなければならない事や物、人へ投下することを許します。
逆に言えば、非情になるべき時にそうなれないのなら、本当に大切なの物や事、人を守ることが僕にはできません。
全てを守れるに越したことはありません。それができるのなら幸いです。しかし、今の僕や大半の人には、それはできないだろうと思います。
本当に大切だと感じる事や人すら守れないことだけは、大人として、そして男として、避けなければならないと感じます。
間違いを認めることを、本当に大切なことを守る行為だと見做すことができれば、それはカッコ悪いことではなくなります。むしろ、かっこいいことであるとすら感じられるかもしれません。
補足。
無責任に逃げる、という意味ではありません。
仮に僕の行為が他人へ損害を与えるのなら、それは保障します。それが自分の心とその人の心にケジメをつける行為です。
ただしそれだけ。損失の保障はするとしても、それ以上はしません。
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