論理学は人の認識の一般化です。人が開発したのだから当たり前ではありますが、見落としてしまいがち。
人の認識を土台として集合や写像という概念は開発された、という視点に立てば数学の見え方が変わってきます。
複雑に見える概念であっても、集合や写像という認識を入れ子にしているだけですから。日常の認識を基礎として、その延長線上に数学の種々の概念があるのだと理解できれば、見渡しが良くなります。
本題。
論理包含の規則と人の認識
人の認識の抽象化
含意(論理包含)
a→b
は
「aが正しければbは正しい」
という人の認識を抽象化したもの。
この演算はaが偽の場合とbが真の場合のみ真を出力する規則と定義されています。
どうして認識を一般化したらそうなるの?
と思いますよね。
分かりやすくイメージで説明します。
「a→b」
が電気回路だと想像してくください。
「→」はとても入り組んだ複雑な回路をしています。
あなたは回路の詳しい知識を持っていて、細部まで細かく説明できます。当然、この回路のaをオンにするとbがオンになる構造であることも理解できます。
ただ、目を薄めるか度の強い眼鏡をかけると細部がぼんやりと抜け落ち、aがオンになると同時にbがオンになるという規則しかあなたは理解できなくなってしまいます。
これが論理学の抽象化のイメージ。
論理包含の演算規則は普遍的に人類に備わった演繹的な認識「a(仮定)が成立するなら、b(結論)も自動的に成立する」の無駄を限界まで削ぎ落とし、その規則のみを抜き出した演算だと言うことです。
この文脈で論理包含の演算規則を理解すれば混乱せず正気を保てると思います。
例
aが成立しない(偽)場合を敢えて省き「aが成立するなら、bも成立する」という認識のみを一般化した論理包含を考えてみます。
同僚からラインで
「今日が雨ならば仕事へは行かない」
と送られて来ました。
この主張の真偽を論理包含により検証します。
前件命題aは今日が雨なら真
後件命題bは仕事へは行かないなら真
演算結果cは主張が正しければ真
前件a | 後件b | 演算結果c |
---|---|---|
真 | 真 | 真 |
真 | 偽 | 偽 |
人の認識を土台として説明する便宜上、前件が偽の場合は考慮しません。常に前件は真に固定します。
こうした場合は「演算結果」が偽となるのは「仕事へは行かない」が偽の場合です。
つまり雨なのに同僚が仕事へ行った場合、彼の主張は偽となり論理学的には嘘つきと断言できます。
論理包含の演算規則を忘れて、日常的な認識で同僚の主張の真偽を判断したとしてもそうなるはず。
雨なのに仕事へ来たら同僚は嘘つきです。
以上が論理包含が人の認識を一般化しているとする説明です。この世界観なら抵抗なく論理包含の規則を受け入れられます。
論理包含をややこしくしているのは前件が偽の場合を考慮するから。
論理学は命題は真か偽に分類できなけらばならず、排中律や無矛盾律、同一律が定義されています。論理学の命題の定義に合わせて、認識の辻褄を合わせています。ここが混乱の根本です。
僕たちは排中律や無矛盾律をいちいち意識しません。そんな奴がいたらまじで面倒です。
疲れたので今日はひとまずこの辺で。
論理学において、同一律とは、「命題AはAである(A=A)」とする原則のことである[4]。無矛盾律、排中律とともに、古典的な思考の三原則のひとつに数えられる
Wikipedia
排中律(はいちゅうりつ、英: Law of excluded middle、仏: Principe du tiers exclu)とは、論理学において、任意の命題 P に対し”P ∨ ¬P”(P であるか、または P でない)が成り立つことを主張する法則である。これは、論理の古典的体系では基本的な属性であり、同一律、無矛盾律とともに、(古典的な)思考の三原則のひとつに数えられる。しかし、論理体系によっては若干異なる法則となっている場合もあり、場合によっては排中律が全く成り立たないこともある
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無矛盾律(むむじゅんりつ、英: Law of noncontradiction)は、論理学の法則であり、アリストテレスによれば「ある事物について同じ観点でかつ同時に、それを肯定しつつ否定することはできない」こと。
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