何かを感じること
裸拳でやるのは「何か」を感じる為です。グラブを着ければ安全です。怪我は避けられるでしょう。しかし、感覚器官からの入力が乏しいので技術的発見が遅れるか、失われます。
裸足でアスファルトを歩くのを想像してください。あなたの防衛本能は、足の皮膚から入力される刺激に対して敏感に反応し、無意識に未来の怪我の確率の予測を立てます。
あなたはガラスが落ちている確率が高い場所や足を挫きそうな地形をなんとなく知覚し、それを避けるでしょう。
靴を履いていたなら認知しえなかった世界が見えてくるはずです。
パラエストラ天満では、あえてグラブを着用せずにミット打ちを行うことがあります。それは既述の裸足でアスファルトを歩く例ように、あえて危険にさらすことで防衛本能を刺激し、参加者自らに自らの技術の脆弱性を知覚してもらう為です。
偶有性
偶有性(ぐうゆうせい)とは、ある程度は予測できるものの、予想できない部分もあることを意味する言葉です。
予測と現実の乖離は、本能的な思考を促します。「本能的な」とは暇があればついついしてしまうような無意識の思考のこと。
裸拳を当て損じると痛みが生じます。痛みは防衛本能を刺激し、それを回避する為の思考を喚起します。それが技術的な改善を促します。痛みの度合いによっては、家に帰ってからも暇があれば原因を考えてしまうでしょう。
仮に僕が一々を手取り足取り教えてしまえば、つまり、結果だけを切り取って伝えてしまえば、参加者がボクシングへの理解を深め、独自の道を開拓する余地を閉ざしてしまいます。
暗記した数学の公式や歴史の年号が生きる上では何の役にも立たないようなこと。僕の経験において価値を生み出しているのは、歴史や公式が導かれるまでの文脈を自分なりに読み取ろうとしてきた過程です。
それが僕に精神的経済的利益を運んできていると感じます。仮に結果としては間違えていたとしても、それまでの過程を読み返すことで何を間違えたのかを検証し改善できます。
与えられた解に従順に従うだけでは、それが効果を生まなくなった時にその理由を検証できません。故に成長が停滞し努力を継続する動機が失われ、せっかく始めたことを投げ出してしまいます。
以上が裸拳でミット打ちをする意味です。
まとめると。技術的な発展を呼び込むには練習に偶有性を持たせる必要がある。また、些細な変化を敏感に感じる必要がある。失敗に伴う肉体と精神の痛みが時に人の認識を開眼させる。だから裸拳。
情緒
天才数学者の岡潔は僕の言うフローを情緒と呼んでいます。
どんなに頭が良くても、数式やその証明を見て何かを感じられないのなら思考は起こりません。
ボクサーAとボクサーBを見た時の情緒はボクサーそれぞれに異なるはずです。例えばメイウェザーとパッキャオ。どちらが美しいと感じるのかも異なるでしょうし、彼らの何に美しさを感じるのかも人それぞれ異なるはずです。
「この人は好き」「この人は嫌い」という説明不能な直感もそう。あまりにも些細な情緒なので、ほとんどの人は無視しているものだと思いますが、誰かと出会って厳密に「何も感じない」なんてことはないはずです。少なくとも目を合わせれば微妙に変化する表情から何かを感じられます。
※僕が知覚しない空気人間が僕の部屋に同居していないとは言わない
仮に情緒がヒトの生存に不要なものなら、そんな無駄な費用を保持するが遺伝子が保存されるわけがありません。つまり、それは異性の好みがそうであるように、遺伝子の生存確率を高める何かを感じているのだと推理できます。
結論、情緒が大切。それはあなたにとっての合理を引き寄せてくる。
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