後回しにしてた論理和の推論規則を学んでいきます。
論理和の導入と除去
∨(論理和)導入
Wikipediaの説明が分かりやすいので引用します。
もし「P」という命題が真であれば、「PまたはQ」という命題もまた真である、という推論規則である。例えば、「ソクラテスは人間である」という命題が真であれば、「ソクラテスが人間であるか、または豚が英仏海峡上空を編隊飛行している」という命題は真である。
この規則は、下記のように記述することができる。
$\displaystyle {\frac {P}{\therefore P\lor Q}}$
Wikipedia
ここで、命題「P」が証明のなかのどの行に出てきても、その後の行に「$P \lor Q$」を示すことができるものとされている。
論理和は命題が一つでも真でさえあれば、他が偽でも演算の結果は常に真となるよう定義されています。
$\displaystyle {\frac {P}{\therefore P\lor Q}}$
この定義は日本語的な感覚に馴染んだ日本人には強烈な違和感を覚える定義だと思います。しかし、この定義はあくまでも論理学上で駆動する装置を創っていいるだけです。日本語的な認識とは無関係です。
恐らく論理学の根底には「真偽のいずれかに決定できる命題を積重ねることで真理へ到達したい」という願いがあって、それに整合する演算が定義されているのだと思います。
この前提で人の認識である「または」が「論理和導入」という推論規則として、半ば力づくで拡張されているのではないかな、と。
だから感情の共有を目的としたような人の言語的な認識の延長線上で考えようとすると混乱するのでしょう。言語としての意味を深く考えるやり、あくまでも論理学的な要求に耐えられるような設計であると理解したほうが納得感はあります。
日本語的な感覚で理解しようとすると、aの話をしていたのに突然どこかから命題bが現れることに違和感を覚えますよね。
「あれは猫だ」という前提から、結論「あれは猫か犬のどちらかだ」を論理的には演繹できてしまいます。
真の命題を含んだ論理和の演算は真となるので、「あれは猫だ」が真の命題なら、論理的には「あれは猫か犬のどちらかだ」も真の命題となるからです。演繹した結果そうなることは理解はできるます。
が、日本語的には「猫って言ってんだろう!ボケが」という感情が拭えない。
∨(論理和)除去
もし命題「P」から命題「Q」が導き出され、かつ命題「R」からも命題「Q」が導き出されるとき、「PもしくはR」のいずれかが真である場合に、「Q」が真となるという推論規則である。PもしくはRのうち少なくとも一方が正しく、QであるためにはPとRのうちどちらかが正しければよいから、Qは正しい、ということである。例えば、下記の例が挙げられる。
もし私が屋内にいれば、私は財布を持っている。
もし私が屋外にいれば、私は財布を持っている。
私は屋内にいるか、屋外にいるかのどちらかである。
したがって、私は財布を持っている。
この規則は、下記のように記述することができる。$\displaystyle {\frac {P\to Q,R\to Q,P\lor R}{\therefore Q}}$
Wikipedia
ここで、命題「$\displaystyle P\to Q$」、命題「$\displaystyle R\to Q$」、命題「$\displaystyle P\lor R$」が証明のなかのどの行に出てきても、その後の行において、 命題「Q」を示すことができるものとされている。
これも定義だけだとちんぷんかんぷんですが、財布の具体例をみると理解できます。そして当たり前といえば当たり前な感じはします。命題P,Qいずれも演繹した場合Rとなるなら、前提P,Qは除去して新たな前提Rとして表せることを許しています。
数学ではある集合をまとめて演繹するのが困難な時に、それをいくつかに分割して結論を演繹する「場合分け」という手法があるようで、論理和導入はその妥当性を示す根拠とも言えます。
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