格闘技や武道、スポーツは礼儀を身につけられます。ただし、それは常に自然発生的な学習で身につく”心”であり、机上で手に入る”知識”とは全くの別物です。
子供にお作法なんて教えたところで上手くなるのは人を欺くこと、服従することだけ。そんなお勉強に何の価値があるのか。僕は無価値どころか、子供の自由を奪い、社会の倫理観の崩壊を招く悪しき行いだとすら考えています。
礼は強さに宿る
強さありき
礼は強さに宿ります。
強さとは困難における対応力、実行力のこと。
自らが困難を乗り越えてきたからこそ、相手の立場からその経験を想像でき、それに敬意を払うことができます。
弱さからくる礼儀正しさは服従の証でしかありません。
武道やスポーツでお作法なんか覚えても何の役にも立たない。強いて挙げるなら、「如何にして強者を出し抜くか?」という小賢しさが身につく程度。
先輩や先生に恫喝され服従の意志を示す方法を学んで何の役に立つと言うのか。子供に奴隷になれと教えているようなもの。
要求されるのは強さ
礼を学ばせる為には論理的に強さが先行しなければなりません。既述のように強さとは肉体的な強さや権力のことではなく、困難における対応能力のことです。多くの経験が必要になります。
ネットに蔓延る無礼者は自らを棚に上げて他人を批判します。彼らは批判する相手がどれほどの困難を乗り越えてきたのかの想像すらできない程、経験に乏しい弱い存在、言ってしまえば子供なのです。
残念ながら彼らは如何なる舞台のバッターボックスにも立つことをしてこなかったのです。舞台は違ったとしてもバッターボックスに立つ重圧を体感したことがあるなら、それがどのようなものなのかを想像することができます。少なくともバッターボックスに立った経験が一度でもあれば批判なんてできません。
彼らはこの世界での戦い方すらも知らないはずです。戦うとは信念を貫くこと。個性も信念も持たない彼らは他者を批判し、自らと向き合うことから逃げ続けています。
彼らはきっと会社や学校ではその弱さ故に礼儀正しく見えることでしょう。
形式だけの礼儀正しさなんてものはむしろ社会にとって害悪です。
真の礼は強さに宿ります。だから子供には強さを教えるべきです。
僕は子供に礼儀という建前で服従の作法を教えることに断固反対します。そもそも子供に礼儀作法を強制することこそが、大人の弱さの現れです。見ていて最悪に気分が悪いし、僕はこれは見過ごせません。
子供達に教えるべきは譲れない信念を持つことの大切さ、そしてそれを守るためにどう戦うべきなのかです。
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