「インナーゲーム」の各章に用意されている叙情的なプロローグを引用しました。
これだけでも含蓄があります。
主観 vs 客観。直感による刹那的な欲求 vs 言語による線形の論理。主体とその傍観者。内在する二人の自分。
僕の体の真の主人は欲求と意志(積極的な意思)を持ちますが、モザイクのような思考で今しか体験できません。
逆に僕の主体を傍観しているもう一人の僕は言語的な線形の思考で過去や未来ばかり見ています。
ガルウェイはセルフ1(客観)とセルフ2(主観)に分類しています。
語弊を恐れずに言うならセルフ1は顕在意識、セルフ2は潜在意識です。僕はセルフ1は言語の思考、セルフ2は感覚の思考だと考えています。
感覚的な思考は言語的なそれとは全く異なるため、実感するこは困難です。それもあって言語を話している人格が体の主人だと錯覚してしまいますが、僕に言わせるとそれ違います。言語は口うるさく主人に警告、命令をするこはできますが、体の支配権は持っていません。
感覚的な思考は「閃き」や「直感」などと言い換えると分かりやすいかもしれません。突然に、そして感じることができるのみで、そこにある論理は見えません(あるけど)。
この両者の綱引きがインナーゲームです。両者が調和した時に、人はスポーツに限らず最高のパフォーマンスを発揮します。所謂フロー、ゾーンです。
僕は娘の学習を見ていて閃きました。
大人は言語による客観的な思考。
子供は感覚による主観的な思考。
違和感を覚えるかもしれませんが、僕は本気でそう思っています。
客観的な思考は強迫観念を生み出し僕の心を縛る一方で、主観的な思考は僕を解放し満足感を高めます。
インナーゲームを意識したわけではありませんが、その内容は僕の発想と似ています。仏陀の言葉も似ているので行き着く先は同じなのかも。
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