ボクシング始めた頃俺「え?基礎基本に忠実、かつ歴史的な選手いる?むしろみんなめちゃくちゃじゃね?」



基礎基本論は一流の競技能力を説明しない。
天才だから許される?
そうかもしれない。
ところで、車の運転には要求されるのは臨機応変さ。
型にはまった教科書通りでは現実に対応できない。むしろ、それに固執することが危険を導くことさえある。
車の運転に限らず、予測不可能な現実においては対応能力(≒臨機応変さ)が要求される。
挑戦→失敗→挑戦→失敗…
この繰り返し。
七転び八起きは赤ちゃんの頃はみんなやってたこと。
ただし、判断の迅速さを担保する為の形式化や計画は必要。
例)4RまでにプランAが機能しないならプランBへ移行、など
しかし形式化の為の形式化は論外。有害。
例)ジャブ信仰、ガード信仰
信仰
井上尚弥「シャドーにはこだわる」
フォアマン「バッグ打ちにはこだわる」
ダルビッシュ「筋トレは大切」
イチロー「ライオンは筋トレしない」
迷トレーナー「筋トレは不要!シャドーが大切!だってチャンピオンがそう言ってる!」
一流トレーダーA「〇〇指標を用います」
一流トレーダーB「チャートの形状しか見ません」
一流トレーダーC「ファンドメンタル>テクニカル」
テクニカル派「ファンダメンタルズは無意味!」
ファンダメンタルズ派「テクニカルはごみ!」
一流セールスマンA「段取りが大切」
一流セールスマンB「直感が大切」
迷セールセマン「やっぱり段取りか…」
宝くじ当選者A「お風呂は右腕から洗います」
宝くじ当選者B「お風呂はシャンプーからです。」
宝くじ当選者C「隔日でお風呂に入ります。」
風呂好きギャンブラー「やはり、お風呂の入り方だ。」
自己正当化の為に恣意的に解釈してるだけ。無意味無価値。
まとめ。
「基礎基本」は誰かが自己正当化の為に恣意的に捏造した何か。
誰かには価値があるが、普遍性はない。井上尚弥のやり方はあなたには無価値かもしれない。
例)
俺はガードに拘ってた。ハメド?メイウェザー?ウィテカー?フォアマン?知らん!
→ガードを上げろぉ!(自己正当化)
俺は礼儀作法を徹底してここまできた!
坂本龍馬?イーロン・マスク?トランプ?知らん!
→礼儀を守れ!年功序列じゃ!(自己正当化)
単なるこじつけ。

ハメドはミス(≒変化≒挑戦)に心を開いている。だからミスをチャンスに変化させられる。
「分類できないパンチ…!」
この価値観がおかしい。
ボクサーがパンチの分類に従うのではなく、パンチがボクサーに従う。
家族の構成員を幸せにする為の夫、妻、子供の役割であり、役割の為に家族がいるのではない。
縄跳びの為にボクサーがいるのではなく、ボクサーの為に縄跳びがある。
主従関係が入れ替わると壊れる。

敵を無力化する対応能力
「現実はこうだ」と決めつけるのは脆弱。現実が主、信念(思想)が従。
「この道路は時速60km以上で走ってはいない」
という信念は現実の道路では脆弱。
※法律違反は推奨してない。
柔軟な信念は「偶然」を取り込む。
チャンスが引き寄せられる。
制約のないハメドは可能性に開かれてる。だからミス(空振り)が即チャンスに変わる。
冒頭の問いの解。
基礎基本<臨機応変さ

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