


私は結果”だけ”を求めてはいない
結果は重要。結果を出せないと無力感を覚えてしまう。つまらなくなって続けられなくなる。
とは言え結果だけにこだわると真実を見失う。
学歴という結果だけに囚われてしまうと、知識はテストで使うものだと錯覚してしまう。現実における強力無比な武器としてのそれを扱えなくなる。

「強くなる」結果だけに取り憑かれると、流行りのトレーニングに流される。場当たり的で本質的な知識が身につかない。結果的に投下できる資本を分散させてしまう。そうやってボクサーとしての一貫性を失い、むしろ弱くなってしまう。
手取り早くモテようとすると、流行りに乗るだけの無個性人となる。顔が良ければそれでもモテるかもしれない。しかし、流行を追うだけの男の言葉には深みが出ない。長い目で見てつまらない男になり、誰からも見向きされなくなる。
これらは結果ばかりに囚われて真実を見失う典型。繰り返しますが、結果は大切です。しかし、その過程も同じくらい大切。
結果だけ、過程だけ、どちらかに偏るのがよくない。僕は後者に偏重していたのを感じます。
いつだって途中で終わっちまう
最後までやり抜けるなんてのは遺伝子や環境に恵まれた、要するに運に恵まれた極々少数の特権者だけ。
「やり抜かねばならぬ」と考えたら腰が重くなる。「嫌なら止める」で、とりあえず始めてしまえばいい。いつの間にかそんな風に思っていたことすら忘れて没頭している自分に気がつく。
途中で諦めたり、方針転換することは悪いことでじゃあない。仮にそれまでのやり方が非合理だと気がついたのなら、それを認めて方針転換できることはむしろ賢明。
より優れた方法を見つけたのに、意固地になって意見変更や方針転換できないことが悪。
仮に意見変更が悪なら、未だにヒトはアフリカで猛獣に怯える暮らしをしている。
「お前は立派にやっているじゃあないか」
思うに、大切なのは「やること」が一貫していることではなく、「やってやるぞ」という”意志が一貫していること”です。
自分にウソをついて逃げる為の言い訳として方針転換の理由を捏造するのは、もしかしたら良くないかもしれない。しかし、そうだとしても、逃げるのは常にあなたの手札の一部です。根性論的に我慢していじめに耐える必要はないし、苦手を克服する資源を得意なことに全振りする選択肢は常にあります。
「俺(私)はダメだ」と自己卑下に走り、自分の能力と人生をドブに捨てるのが良くない。そうなると他人の足を引っ張るのが生きがいのエージェントになってしまう。
逃げるのも諦めるのも含めて、どの選択が正解なのかはやってみなければ分からない。が、使う前から選択肢を捨てるのは間違いなく正解ではない。
逃げた先に何かがあるかもしれない。自己卑下する必要はない。方針転換は前向きなこと。
「違うかもしれん」と感じたら方針転換。それも違うならさらに方針転換。結局は同じ場所に戻ってくると分かるだけでも、それが分からないままいつまでもモヤモヤし続けるよりは遥かにマシ。それしかないと分かってやるのと、それ以外にもあるかもしれないと思いながらやるのとでは、同じで仕事であっても取り組む本気度が変わってくる。向いてないと分かることは、得意なことを探す手がかりにもなる。
言われたことに従うだけの奴隷は扱いやすい。だからその根性を幼い頃から叩き込む。奴隷の親は子に奴隷根性を教える。骨の髄まで奴隷になる。
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