自然な感情とフロー
カッコ悪さ、悔しさ
自分より優れた人を見れば悔しく感じるのが人。その悔しさを認めず、勝負を挑むことから逃げて、「〇〇には興味がない」と偽りの妄想で自分を騙した時、人生への関心と責任は失われ、社会から存在が消えてなくなります。
誰かを嫌う感情は、自分の自然な感情を認められないという心の構造を発生源としています。
成熟した大人は自分を認められるので他人も認められます。だから他人を嫌いにはなりません。未成熟で子供のままだから、他人を拒絶してしまいます。成熟した大人同士なら、合う合わないは認めても仲良くなれます。良いところは必ず見つけられて、そこと付き合うことができるから。
もし嫌いな人がいるなら、本当に嫌いなのはその人ではなく、その人に投影される自分自身です。嫌いな人を遠ざけたいのではなく、自分の無知、経験不足、臆病さを遠ざけたいだけ。そうやって自分の弱さを遠ざける癖は孤独を導いてきます。
僕のようなモテナイ男が女性を遠ざけたがるのは、モテナイ自分と向き合いたくないから。本当は女性が大好きなのに。女性ではなく自分が嫌いなんです。
幼児への退化
「競争から逃げた」という潜在的な認識は、「〇〇には興味がない、だから負けても悔しくない」という自覚として顕在化します。
心の奥の潜在意識(主観)は逃げた事実を知っています。しかしそれを認めてしまうと自分の存在価値が揺らいでしまうので、防衛本能は「逃げたのではなく、〇〇には興味がないだけ」と曲解します。僕達の意識に顕在化するのは曲解された認識であるということは頭に留めておく必要があります。
言い訳を繰り返すと人生への興味は失われてゆきます。次第に何に対しても心は動かなくなり、最終段階では自我は消失して空洞の入れ物になります。
そこには何でも入ります。陰謀論、コロナ警察、科学信仰、カルト、欲しがりません勝つまでは、ホロコーストなどなど。かつては悪霊と呼ばれていたモノに憑依され、肉体の制御を失います。
自分ですら自分が誰なのか認識できなくなって、神(自然、社会)と同化したような発言を繰り返します。神として全人類を批評の対象とすれば安い安心だけは得られるから。
自分を顧みず、他人だけを批判する能力を持たされた、SNSに溢れた幼児達はつまるところ、逃げ続けた人の成れの果ての姿です。
潜在的には言い訳をして逃げた自覚があるので、その事実を突きつけてくる人を嫌い、遠ざけようとします。例えば自らの信念により栄光を勝ち取った人、チャンスを掴んだ人、これからそれらを掴もうと藻掻く人がその例。努力し藻掻いている人をカッコつけて見下し努力しない自分を肯定します。
無関係の他人であっても、努力し競争することから逃げた事実を突きつけてくる(妄想だが)人を恐れます。偽りの認識が崩れそうになると発作が起こり、その反動形成として自分の世界を壊そうとする他人を攻撃してしまいます。
潜在意識レベルの本心では、自分の弱さを認めていて、本当はその攻撃の対象と同じように自分を試してみたいと思っているはずなのに。
悔しさやカッコ悪さ、臆病さという自然な感情を認められないことが根本的な原因です。
はんどう‐けいせい【反動形成】
コトバンク
〘名〙 潜在意識の強い欲求が行動としては反対の傾向として表出されること。強い性的関心が激しい性への蔑視として表わされるような現象。
カッコ悪いのも悔しいのも自然な感情です。この自然な感情を大切にすることが、自分を愛するってことであり、他人を愛することです。自分の自然な感情を愛せない人は他人の自然な感情も認められません。
ボクシングにおけるフローも同じ原理で駆動されます。恐怖、不安、好奇心など。それらの自分の自然な感情を尊重できるかどうか。
フローを体験すると、同時に他人や自分へ抱く感情の変化、世界の認識の変化も感じることができるはずです。
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