世界平和、男女平等…など。
古今東西で腐るほど理想が掲げられてきたわけですが、その理想が達成されたことってありません。それは理想が掲げられてしまうと理想は実現されない論理があるからだと考えています。悲しいことですが、掲げたその観念に囚われて曇りなき眼を失ってしまうからです。これが人の限界だと思います。
理想は理想
足るを知る者は富む
理想は理想、追いかけ続けるものであって完成することはありません。
理想郷はそこの住人が理想郷に居ることに気が付いていない状態で実現できます。
「理想郷にいるぞ!」→「もっと高い理想を目指せ!」→「理想が再定義される」→理想という観念を目指した個人間のミクロの奪い合いがマクロの理想郷を破壊。
理想郷に居ると自覚した時点で、無限の欲望を持つ人の性質はそこに満足できなくなります。克服しようと苦行が始まります。
創世記で最初の人であるアダムとエバが口にした知恵の実は現代では客観性と呼ばれます。
「知恵の実を食べたアダムとエバは彼らが裸であることに羞恥心を覚えた」と表現されています。
彼らの子孫である人類は幸せを目指せば目指すほど、それを手放してしまう、「客観性」という業を背負わされているわけです。
スタンドプレーのネットワーク上の現象がチームワーク
「平等」を前提として掲げた場合、「平等」は演繹されません。
人の平等という定義が依存心を包含しているからです。環境(他者)への依存心は個人の不断の努力を放棄させ、結果的にどれだけ環境へ依存できるか?という「努力しない」競争を現象として引き起こします。
人の性質上、これ以外の結論はあり得ないと僕は考えます。
つまり平等や平和という理想郷を前提に掲げてしまえば、論理的に「理想郷」は実現されないのです。
集団内の個が自立し、自らの理想を追求したスタンドプレーの集積の結果として集団のマクロ的理想が出現します。チームの個がチームワークに依存した時点でチームワークが成立しなくなるのと同じ論理で、理想を掲げたら理想は実現されないのです。
今起こっている終末的な世界観の拝金主義などはまさに平等、平和という依存心を前提に掲げてしまった結果起こった現象だと僕は考えます。
理想を掲げると終末が演繹されるなんて神様の皮肉を感じてしまいますが、逆に人の性質の面白さも感じます。
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