含意は因果関係
含意の認識
論理学や数学の基礎を成す人の認識について考えていきます。
含意「aならばb」は因果関係とみなすことができます。
「殴られた→痛い」
という含意は「殴られた」という命題が真なら「痛い」という命題も真となる因果関係の認識。
「殴られたならば痛い」は複数の普遍的な事実から帰納的に命題を抽出して一般化してます。
これを大前提として小前提「殴られた」が真の場合は「痛い」の真が演繹されます。
大前提は疑うことは許されない、というか疑うべき事実が今のところ発見されていないので、とりあえず真だと認めてしまっています。
含意は人の因果関係の認識と考えることができます。順行の時間を認識する人が自然に見出す世界観ですね。
別の流れの方向から世界を見れると因果関係とは異なる世界観で世界を解釈するのかもしれませんが、人はその認識を知りません。
「殴られたら痛い」は物理学や生理学で説明できますが、ある段階、恐らく「因果関係(時間の順行)とはなんぞや」って領域から無条件で認めなければならないと思います。
とりあえず僕の知識では現状は「因果関係」は「起こったことを時間の順序で結びつける」以外の答えが見つかりそうもないので一旦は放置します。
もう少し解像度を上げて具体的に考えてみます。
因果関係と写像
含意は因果関係の認識、つまり事実と結果の対応関係と考えることができます。写像です。
写像は集合の対応関係の概念として定義されていますが、よくよく考えると入力と出力の対応関係から法則を見いだしていく人の認識そのもの。
「等しい」も集合と集合の対応関係なので写像ですね。
1 = 0.5 + 0.5 = 0.6 + 0.4
「=」は反射律、推移律、対称律という規則を満たす対応関係。
結局は人の認識が土台になっていて、それ自体は超えられないというか。超えられるのかもしれないけど。
とにかく素人の直感では「それ大丈夫なの?」って気がしてしまいます。
現状はそれで上手くいってるし、かつそれしか他に方法はないんで受け入れるしかないですが。将来的にはどうなんどろうと。
論理学や数学はその枠組みの中を発展させるものであって、その枠組み自体の意味は考えないのかもしれませんが。
ペアノの自然数の公理はどんな認識なのかなあ。
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