自然演繹の現時点の僕の疑問とそれに対する解釈を書き出して頭を整理します。
「仮定」について
推論て何
論理学の推論の成立に関する現時点の僕なりの文脈を無造作に与えると以下のような感じ。
現象を観察する
↓
前提(事実)を抽出する
↓
「前提が真なら結論も真である」という、一応は納得のいく、というかそれしか知らないので仕方なく、人の認識を正しいものと仮定して採用する
↓
人の認識を厳密化した自然演繹の規則に従い、機械的に真理を追い求めることを試みる
「人の認識で世界を理解し、真理へ到達できるはずだ」→「人の認識を一般化した推論規則を機械的に当てはめることでそれは実現できるはずだ」という人の願望が根底にあるってことですね。
何故一々手続きに文脈を与える回りくどいやり方をしているかと言えば、物語がなければ僕はそれを理解したと思えないからです。僕というか、人の性だと思いますが。
とにかく上記のような我流の文脈から論理学の全体像を解釈しようという試みを楽しんでいます。
記号を弄くり回してパズルを解く行為に対して納得感のある僕なりの意味を与えたいのです。
疑問
僕の現時点の疑問を簡略化したもの例に挙げます。
前提
A→B
A→C
結論
A→(B∧C)
という推論。
Aと仮定すればBとCが真であると結論しています。
演繹してみると
$\frac{A \to B \ A\to C \ [A]}{A \to(A \land B)}$
[]は仮定です。
便宜上の例なので、論理和導入の演繹は飛ばしてますので悪しからず。
Aであると仮定することで、A→B,A→Cの前提から結論A→(B∧C)が演繹されます。
仮定の条件の解釈
僕が疑問に思うのは仮定の設け方です。
どんな条件において仮定を設けてよいのか。仮定を作る際の制約はないのか。
で、このことについて調べてみたのですが納得の行く答えは今のところ見つからず。もっと厳密な論理学の教科書なら説明があるのかもしれませんが、それを探すよりは自分で解釈を与えたいという欲求が勝りましたので、以下のようなの僕なりの解釈を与えました。上記の論理学の根底にある願いが前提となります。
以下長濱説。
よくよく考えてみると仮定を制約する必要はないような気がするんです。
結論(仮定)には無限の可用性を認めてしまって、その自由な解釈許す(本質的に意味はないが)ことに価値があるのかなと。
なので現時点では「観察によって得られた普遍的(ぽい)な事実に暫定的な仮定を導入したら、意味のある(ぽい)結論が導ければ嬉しい」って文脈を設けて解釈しようと思います。
間違えているなら改めて解釈を与えます。
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