集合と元の素朴な定義について学んでいきます。
公理的集合論では厳密に集合を定義するようですが、慌てずに素朴集合論の定義から学びます。
集合
集合の定義
けっこうあっさりしていて
「集合とはものの集まりである」
です。
整数、自然数、有理数などが集合の例に挙げられます。
あとは2で割れる、とかもそうです。
「美しい」とか「大きい数」「小さい数」とか曖昧に範囲を決めるのはダメ。
集合は数学の根底に流れる思想なのですが、最初から「集合とはこう!」のような厳密な定義があったわけではなく、最近までは曖昧な定義で議論をしていました。
集合の概念が開発された当時は厳密さが要請される場面がなかったからです。
ただ、「大きい」「小さい」「美しい」とは?のような、議論を行う範囲については厳密さが要求されます。
ある時までは曖昧な定義で議論が進められたのですが、ついに上記の定義だと矛盾が生じてしまうことをバートランド・ラッセルが指摘し、厳密に「集合」が定義されることになりました。
まあ、でも今回は素朴集合論の立場をとるので、曖昧な定義のまま進めていきます。
集合の要素
集合の要素を「元」と呼び、例えば集合Aの元xを表記する場合は$x \in A$と書きます。
元xは集合Aに属すると表現します。
書き方は
$A = \{1,2,3\}$
これを外延的表記と呼びます。
ただこれだと無限にある集合を表現できません。
より表記を簡略化したものを内包的表記として
$A = \{x \in A |P(x)\}$
のように表記します。
翻訳すると「集合Aの元xかつ命題Pを満たすもの」。
$A = \{x \in \mathbb N | 5 < x \}$
これは「自然数かつ5より大きなもの」。
ひとまずはここまでとします。
部分集合などに進もうと思ったのですが、興味が他へ逸れてしまいました。
よもやま話
集合論界隈の面白い話題があったのでその話を少しだけさせてもらいます。
集合は大きさを定義できるようなんです。
まあ、それは何となく理解できます。
日本人と中国人の集合は中国人の方が大きいと僕は感じますし、多分みなさんもそうだと思います。
なのでその感覚を定義しておいた方が集合の議論が人間の感覚で扱いやすそうです。
集合の元の数を「濃度」と呼び、それで集合の大きさを定義します。
まあ、妥当な感じがします。
「日本人」と「中国人」の集合における直観的な大きさの差は、恐らく集合の中にある要素の数に起因しているだろうと僕が感じるからです。みなさんもそうだと思います。
で、そう定義した場合の集合「自然数」の大きさは濃度の定義通り無限になります。
これも妥当な感じがします。違和感はありません。
定義を当てはめると整数の濃度も無限で、有理数も無限になります。
さらに話を深めて。
自然数と整数はどちらが大きいかを議論します。
整数は負数があるので0を起点に負と正の方向へ伸びていきます。
自然数は0も含めるとするなら0を起点に正の方向へ伸びていきます。
僕だけかもしれませんが、正の方向に無限にある自然数より正負の方向へ伸びている整数の方が大きい気がします。
しかし定義を当てはめると自然数と整数の大きさは同じです。どちらも無限個あるので。
もっと言えば有理数も大きさは上記の数と同じ。
この辺の証明は別の機会に譲りますが、写像の全単射の定義によって導き出すようです。
無限に要素があっても一対一の対応を作れるなら濃度は同じだ、という論理を導き出せると。
じゃあ無限にあるのなら、大きさは同じと理解していいのかといえばそうではないようで。無限にある実数と無限にある自然数を比較すると数学的な濃度(大きさ)は実数の方が大きいんですよ。
自然数 < 実数
ってことです。
数学の手続きを踏むと、つまり論理的に自然数と実数の大きさの議論をすると、無限には大きさがあると結論できるわけです。
え?無限に大きさがあるってどゆこと?って思いませんか。無限は無限だろ!って感じますよね。
奇妙だなーと思いますし知的好奇心が掻き立てられます。
無限は僕が何となくそう感じているように、そこに横たわっているような「存在」ではなく、掘れば掘るほど現れてくるような「現象」のことを指すってことなのかなと。
僕の無限に対して抱く根本的なイメージが間違っているだけかもしれませんし、数学は無限を定義してはいるけれど、その全体像をイメージすることは人の計算能力ではできないのかもしれません。
はたまた数学の前提(公理)が間違っているのかもしれません。
まあ、いずれにしても無限て奇妙に感じます。
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