最近娘がごく簡単な好き嫌いを示すようになり始めました。
生まれたばかりは何一つ知らなかったんです。
自分の手の動かし方ですら知らないし、自分は何が好きかなんて当然分かりません。
僕は好き嫌いを持つことが人間の論理性、自我の第一歩だと思っています。
娘はその第一歩を歩み始めました。
好き嫌いを覚えて、そして自我を持つ。
こうやって考えると、一人の人間の成長の過程を見ることができる子育ては素晴らしい経験だと思います。
僕の知的好奇心も刺激されます。
何も知らないことから始まる
子供って何も知らないことから始まるんです。
目に映っているものが何か分かってないし、自分の身体が思い通りに動かせることも知りません。
できるのは興奮と安静の切り替え、その度合いに応じて泣く程度。
自分と外界の区別もしていないと思います。
少しづつ自分の意思で動かせるもの、動かせないものを学習して、その学習の果てに自分というものの形とその外の世界を認識して区別できるようになって。
好き嫌いの自問自答が論理性の入口
始めはうんこ、ごはんでしか興奮しなかった娘ですが、今は「抱っこ」と「お話して」で泣きます。
抱っこの揺れと体を包まれる感覚、言葉による脳への刺激が心地いいのだと思います。
その刺激を求めて泣くわけなんですが、何も知らない娘は泣けば抱っこしてくれるなんて当然知りませんでした。
僅か1か月で学習したんです。
泣けばごはんが食べられて、そのついでに抱っこしてくれることを覚えて、それを関連付けて、「泣けば抱っこしてくれる」と共通項を抽出するわけです。
当然自我のない、生後1か月の娘が意識的に思考しているとは思いません。
気持ちのいい刺激を得られる方法を感覚的に結び付けて、泣くと気持ちのいい刺激が得られると無意識下で結論したんだと思います。
原因と結果を結び付ける。
これってかなり原始的ですが、論理性の萌芽だと言えると思います。
好きなことを突き詰めること、のめり込むことの重要性
僕は好きなこと、とことんのめり込むことが高度な論理性の入口だと思っているんです。
何故かと言えば、あることを極めようとするなら人生という短い期間ではそれを達成するための時間と資源が少しも賄えないからです。
「どうやって効率的に物事を達成するか?」常にこの思考が必要になります。
ある仮説をたてて、それを実践し、上手くいかなかった理由を考える。
幼少期からこのルーティンを繰り返し繰り返し実践していると、10年20年でそのルーティンの成熟度は初めの頃とは比較にならない、別次元の論理性に達しているはずです。
逆にとことんのめり込めるほど好きなことがなく、日常を繰り返して成長してしまえば論理性が育たないのではないか、とも考えています。
だからこそ、僕は娘が好き嫌いを覚えたことが嬉しい。
この好き嫌いをベースに彼女の論理性は飛躍していくはずだからです。
そしてその好き嫌いをベースとした論理で世界を理解し、思い通りにできること、できないことを区別できるようになり、自分の思い通りに動かせるものの共通項を抽出して、「自分自身」という彼女の自我が形成されていくはずだと考えているからです。
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