
コミュニケーションの非対称性
下にある長濱陸の練習の考え方シリーズの続き。
今日はコミュニケーションの非対称性を元にトレーナーとボクサー関係、及び人間関係についての主張します。

コミュニケーションは非対称です。
詳しくは下を。

このブログでは世界観や価値観、哲学、思想、などの言葉を使って説明しています。
人それぞれに認識している世界は異なります。
それは性格や家系、知能、経験など、様々なものに影響を受けて形成されますので、僕と同じ認識を持つ人は存在しないでしょう。
それはすなわち、僕の言語は厳密な意味は伝わらない、ということです。
これはあなたもそうです。この視点でなら、人は常に孤独です。
言葉で厳密に現象を説明するのは困難であるか、不可能です。
あなたの異性の好みを箇条書きして、僕がそれに完全に整合する人を選んで連れてき場合の、あなたがその人を好きになる確率はどの程度でしょうか。決して高くはないでしょう。
あなたの感情を理解できるのはあなただけ。みんな理解しているフリをして、自分の利益、例えば「あなたからの評価」を取りに来ているだけです。
「どうして分かってくれないの!」
と駄々をこねていいのは子供の間だけ。他人の心が分かるわけないんです。分かるフリはできますし、それで相手を騙すこともできます。
あなたが本当に辛い時こそ、分かっているフリをしていた奴ほど逃げて行きます。助けてほしい時程誰も助けてはくれません。頼りになるのは自分だけです。
他人は所詮は他人。遺伝子レベルで見れば、「あなたの理解者である」とあなたを欺いて何かを奪おうとしているだけです。
ほとんどのコミュニケーションは、お互いに「意味が伝わっている」という幻覚、ないしは「伝わってほしい」という願望を共有しているだけです。

以上が以下の前提です。
視点を合わせる
長岡に様々な練習をやらせるのは、認識を擦り合わせるためです。
「ポイントは怪しい。次のラウンドからいけ」と言った場合の、僕のイメージと長岡のイメージが一致していなかったら、僕は「何をしてんねん」と思いますし、長岡は「何をしてほしいねん」となります。
インターバルは意思疎通する為にはあまりにも短い時間ですから、「やれ」「おけ」を合わせておく必要があります。
というわけで、様々な状況を想定した練習をしています。
この日は「逃げ道を防ぐ≒リングを切る」練習。僕が相手を追い詰めるのに合理的と考えるリング上での歩き方、パンチの選択を共有しました。
スパーリングを振り返るとまだまだ足りていないとは感じますが、マシにはなっています。



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