人は大昔に「幸せ」を定義し、それを追い求めることを決意しました。それは認識の中にしか存在しないものを追いかけるということ。
果たして無いものを追求する不毛な行為に「幸せ」はあるのでしょうか。
この疑念に対する僕の結論を共有します。
幸福論
概念の創造は関係の定義により行われます。AとBの二人の人間の間の関係を定義することで親子が創造されるように。タイヤ→ガラス→ハンドル→アクセル→シート→シートベルトという関係の連鎖反応により「車」という概念が出現するように(縁起)。
「幸福」という概念の創造にはその対となる「不幸」の概念が必要になります。
人は二項関係によってでしか概念を創造できません。「幸福」を定義する為には対となる不幸を定義する必要があります。
「幸福を追求する」ことは論理的には「不幸の追跡を躱す」と同値と言えます。
つまり、幸福の追求こそが不幸による追跡を演繹しているということです。
結論。
認識の罠に気が付けない間は人はそれに縛り付けられます。
幸福を認識せず追求しないことこそが不幸の創造を阻み、自然発生的な幸福を導いてきます(縁起)。
Bitly
幸せについて論理的に考えたい方にオススメ。
著者のショーペンハウアーは多くの後輩哲学者に影響を与えています。また、彼自身はブッダの影響を受けているようです。
皮肉なユーモアが好きな方、ズバズバとダブーに切り込んでいくのが好きな方にオススメ。言ってはいけないことを言ってしまうのは痛快です。
人はその認識の枠を超えた形而上学的な真理に到達することはあるのか。そもそも、知覚の外側に存在する世界を人は考えられるのか。いや、そもそものそもそも、現実は人の言う存在の定義を満たすのか。
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