気がつけば七に。
今回は指導レベルで物事が複雑化していく原理についての長濱説。
「殴る」ことがどうしてこうも複雑になるのか、そして、「殴られない」ことがどうしてこうも複雑になるのか。
なんなら、構えるだけがどうしてこんなにも複雑化するのか、についてを考えます。
「パンチ」という動作や「パンチを避ける」という行為の説明が、今のように複雑化した理由は何か、ということ。
これは、承認欲≒生存本能が説明してくれると思います。
ダニング=クルーガー効果(ダニング=クルーガーこうか、英: Dunning–Kruger effect)は、ある領域において能力が低い者は自分の能力を過大評価する傾向があるという認知バイアスの仮説である。また、能力の高い者が自分の能力を過小評価する傾向がある、という逆の効果を定義に含めることもある。
承認欲は「自らの居場所を確保して生存確率を高めたい」という、社会性動物であるヒトの生存本能の表出だと言い換えられます。
「自らは存在に足るのだ」という暗黙の主張。
太古は、小さな群れの中で食料や繁殖の機会などの資源の分配を行いました。今のような「機会の平等」や「独占≒悪」なんて価値観はなく、強い個体だけがその独占を許される社会です。今でもそれはそうか。
バカで弱々しく見られるような遺伝子は、何か起こると真っ先に生贄にされるので保存されません。
太古は嘘でも何か奥の手がある風に見せることが身を守ってくれます。動物が威嚇で毛を逆立てるようなことをヒトも本能的にやります。
つまり、承認欲はヒトに与えられた極々自然な感情で、僕もあなたも特殊な遺伝子疾患でも限りは、「他人から認められたい」という感情を持っているだろうと推理できます。
なんなら、群の他の個体に自らの存在意義を認めさせたい、という動機こそが、文明を発展させたはずです。つまり、承認欲はヒトの持つ偉大な性質の一つです。
ただ、その、個人や文明の推進剤としての承認欲は、時に物事を複雑化させている側面がある、と僕は感じることがあります。
身近な例でなら、説明を簡単化する為に専門用語を用いるのでなく、自らの知識を誇示するための専門用語を用いる、というような行為です。これは頻繁に見られると思います。
少し前までは「意識高い系」と揶揄された行為です。意思の伝達や問題の解決よりも、小難しい横文字を使い、それを聞く人を圧倒することが目的の発言です。
僕の言葉で言うなら「序列確認」型の人種が好む会話です。彼らは問題の解決には関心がありません。
「自分の能力を誇示する」ことに関心があります。
序列確認勢「こうした方が良い(俺を認めろ)」
()内の序列の確認が目的の発言なので、発せられた言葉自体には意味は持たされていません。
「私はあなたの知らないことを知っている。すなわちあなたより優れている」と伝えています。
彼らは論理的にそれが妥当であるかにはほとんど関心を持っていないように見えます。余りにも無責任に見えることもあります。しかし、彼らは恐らくはそうは思いません。本能は、時に自らの心ですら欺いてしまいます。
思うに、この性質が社会に非合理を溢れさせています。
ボクシング以外にも、僕の経験でなら「ノックの回数」「座り方」などの就職面接マナーも挙げられます。効率を競い合うビジネスですらそうなのだから、この類の非合理は日本中を覆い尽くしているだろうと予想します。ヒトのシステムとしてそうなのだろうと。
結論。ガラクタに目がくらんでいる間に人生は終わる。
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