大阪滞在中はSNSか読書くらいしかかやることなくて。
SNSとYou Tube怖いなあって。
トートロジーと循環論法
トートロジー
トートロジーは同語反復。所謂「小泉構文」。
KO率が高い(パワーがある)のはパワーがあるから。
ディフェンスが良いのは目(ディフェンス)が良いから。
天才(強い)だから強いみたいな。
ボクシングジムでも頻繁に聞く言い回しじゃないかと。「は?」となるのですが、言ってる人は自信満々だったりします。
結論が前提に組み込まれている循環論法とと似ています。
常識の循環論法
ガードを上げるのはみんながやっている大切な常識だ、常識だから大切なんだ。
本当にガードを上げることがディフェンスに繋がっているのか?という論証を省いて結論されている可能性あり。
ロードワークは常識。だから必要。
これも同様。「常識は大切、大切だから常識」という風に前提に結論が組み込まれてます。
他にも最近の例で言えば義務教育が大切だとする主張。
「大切だからみんながやっている。だから義務教育は大切なんだ」という意味のない循環論法になっています。
義務教育が常識となったのは近代です。哲学や数学、建築が発展した古代ギリシャからローマ時代にはそんなものなかったし、日本には識字率を世界最高にした寺子屋があり、和算という数学に近い学問がありました。高度な教育を施す方法は義務教育の他にいくらでも挙げられます。
キリスト教教育が盛んだった中世ヨーロッパの社会的価値観、世界観を破壊し科学という世界観を広め、生活を豊かにしたのはダーウィンなどの当時の異端とされた科学者です。
ダーウィンの「種の起源」発表までの苦労、そしてその後批判はWikipediaを読むだけでは僕たち凡人には想像できませんが、現代のSNSで起こっているようなことが繰り広げられていたのだろうなと。
ローマ時代からの歴史的な文脈があるで「清貧」の思想をそれ単独で否定はしません。それを肯定できる背景があります。しかし、根拠のない盲信が中世のような貧しさにに繋がっていたこともまた事実でしょう。果たして現代社会にける義務教育信仰に合理性はあるのでしょうか?
「基本的人権」も「平和」も「平等」も近代に発明され、それはそれが発明された当時の価値観を持つ人々の理解を超えた概念だったはずです。生まれたと同時にそれらを与えられた僕たちはそれを忘れてしまっていますが。常識だから正しい、与えられて当然と考えるのは危険です。
閑話休題。競技力向上に必要なのは常識ではなく、それを打ち破る発想。
フィードバックループ
大多数がそれを信じているという事実が、個人がそれを信頼する理由になる。これが常識。
現実を反映していない間違った答えの連鎖が、虚構をあたかも真実であるかのように振る舞わせることは往々にしてあります。
常識のフィードバックループが作り上げた虚構が社会。
SNS、マスメディアは虚構の増強装置。人の世界を支配する怪物はSNSで大量生産されています。
原因と結果
トートロジーと循環論法が良くないのは、現象をそのまま語っているから。
ディフェンスが良いのは何故?→反応が良い→相手の全体像が見えている?→距離が保たれている?→体が突っ込まない技術と反射を抑える立ち方?→手打ちと骨格立ち?→習慣?骨格?→ポテンシャルの正体?と推論を重ねていくことが大切ですね。
恐い社会になりそう。
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