反射ディフェンス
反射ディフェンスは、指導時には「爆発から身を守る」「うんこを嫌がる」とも表現したりします。
体に備わった能力を引き出すだけなので、誰にでも直ぐにできます。
僕の経験的統計によれば、中学生未満の子供は数秒で理解し実践します。しかし、面白いことに高校生になると急にできなくなりす。
この辺りが、生理的な認知機能で分類した場合の「大人」と「子供」の分水嶺なのかもしれません。客観的な認知が強くなる故に常識的な発想に縛られる傾向が増すのだ、と推理しています。
大人の学習が子供と比較してノロマなのは、大人は自らの固定観念に支配されているからだと思います。
経験的に、子供と比較すると同じ技術の体得に大人は数十倍、数百倍の時間がかかります、下手をすると、いくら時間をかけても体得しません。
僕は、指導中のコミュニケーションを通じて、「観念による現実の汚染」が子供と大人の、残酷なまでの成長の差を規定しているのだろうと感じるようになりました。無自覚の「こうあるべき」「こうだ」という決めつけです。
それは論理的に、成長の機会を溝に捨てる行為です。
知能でいうなら、大人は子供を圧倒できるはずなのに、すなわち合理的な解を導く能力で勝るはずなのに、成長の早さにおいては大人は子供に圧倒されます。
この僕の経験と推理が一般化できるのなら、あなたが知能的あるいは身体的な天才であったとしても、社会や自らの観念に汚染されているのなら、その能力は少しも発揮されない、と言えます。これが社会的に起こっている仮定するなら、これは日本の30年の停滞も説明もしてくれます。
これはブッタの「孤独に歩め」の文脈の一つです。独りだからこその自由です。しかし、それには常に責任が伴います。その危機感は認知機能を覚醒させせ、バカげた判断を押さえつけてくれます。
戸愚呂「お前、まだ自分が死なないとでも思っているんじゃないか?」
ブッダと同じことを戸愚呂弟は言っています。
閑話休題。
反射ディフェンスは、ディフェンス技術という集合に含められている、よりはむしろ、ディフェンス技術という集合を規定する集合である、と僕は考えています。
「避ける」ではなく「隠れる」
人の反射的な反応速度から推理するなら、ディフェンスは厳密には「避ける」ではなく、予測が先行しているはずです。すなわちディフェンスの解釈としてなら「避ける」よりは、むしろ「相手から隠れる」が妥当でしょう。
例えば、目の前に鉄パイプを振り回す狂人がいると想像してください。その狂人と戦わなければならない場合、あなたは反射的に腕で相手を遠ざけるようは動作をしながら、背中や肘、肩で顔を隠すような動作をするのではないでしょうか。
それは、メイウェザーやジョージジベントンののショルダーロールに近い動作になるはず。
あるいは軽トラがあなたへ突っ込んできた場面を想像してください。あなたは反射的に顔を背け、腕を伸ばして頭部を肩や背中に隠すような動作をするはずです。
従って、ディフェンスは反射が規定する、かつディフェンスを規定する感情は、「避ける」ではなく「隠れる」であると推理できます。
あるいは、なんでも良いから、とにかく相手に対応し無力化しようと藻掻くこと。
以上から、腕を伸ばしたり、顔を背けたり、という動作を自然なことなのだと、むしろディフェンスの基礎なのだと受け入れて、それをボクシングへ組み込むことを優先することが効率的であると僕は結論しています。
大げさでも反射的な動きが活性化するのなら、あなたにはディフェンスの能力があります。
僕が指導するなら、まずは軽めのスパーリングなどから。
大切なのは「こうあるべき」「こうありたい」という執着を捨て、あるがままの、今の自分の能力を否定せずに受け入れること。
その先で合理が引き寄せられてきます。
それは、細部を捨像するなら、上記のカネロやジョージ・ベントンなどに類似した動きになると予想します。
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