上の記事で、「ある宗教の教義とその信者に見られる関係の規則性が、人類の幼児期に見られる親子関係である」場合を「宗教」と定義しました。
親に依存し、親を真理だと信じ、親の言うことは何でも聞く、というような、a〜bの関係です。
この場合は社会にあるほとんどの観念や常識が宗教と呼べます。逆に言えばそうでないなら、つまりそれらを単なる人生を良くするだけの道具として利用しているのなら、クリスチャンだろうが仏教徒だろうが、信者ではありません。
この話は、「宗教(親子関係)こそが人類のシステムである」と、僕が親になってから感じるようにったことが起点になっています。
上のリンク記事でも説明していますが、古代の宗教はある側面では社会の統治システムを含意していただろうと僕は考えています。現代で言うところの「科学」「法律」「医学」「道徳」「経済」などの社会通念をひとまとめにして圧縮したような概念です。
所謂カルト(この場合は常識カルトも含む)には、奇妙なルールが存在し、それを死守する信者がいます。
宗教が危険視される要因の一つです。しかし、ある教義に基づいて暴力を起こしているのは、所謂カルトだけではありませんよね。通貨を崇拝するカルトの起こす悲劇は世界中で散見されます。なんなら、家族を破壊し社会を崩壊に導く最も危険なカルトではないか、とすら思えるほど。
視点によっては、戦争は拝金カルトの宗派争いと見ることもできます。
前置きが長くなりました。今回議論したいのは、宗教にある、信者の信仰心を試す踏み絵の構造。
踏み絵(踏絵、蹈繪[1]、ふみえ)とは、江戸幕府が当時禁止していたキリスト教(カトリック教会)の信徒(キリシタン)を発見するために使用した絵である。本来、発見の手法自体は絵踏、絵踏み(えぶみ、えふみ[要出典])と呼ばれ区別されるが、手法そのものを踏み絵と混同されることもある[2]。
引用ウィキペディア
奇妙な就活お作法、ビジネスお作法、ボクシングの鏡の前での反復、と言えば想像しやすいかと思います。
それらは、信者の信仰心を試す踏み絵と同義であると僕は考えます。
就職面接で「グダグダやっている時間で何か一つでも仕事を終わらせるべきでは?」や、「対人競技のボクシングで、バレエのように鏡の前で形に執着したお稽古をさせる意味は?」などと、違和感を持たない、持てない人を選別しています。
そうやって集まった集団の社会は当然の結果として非合理で溢れかえります。つまり、外にいる人達の目には奇妙に映るお作法が大量に残された社会です。
例えば海外から見た日本のビジネスお作法やボクシングの奇妙なお作法です。
以上のような効率を失った社会は、自らを支える費用を賄いきれずに自壊します。これはローマから続いていること。自分の利益だけを守りたいバカが権力を握ると、社会構造は固定化されて腐敗します。残念ながら「バカが権力を握る」構造は、民主主義にも言えます
何故「踏み絵」なのか、と言えば、それがバカを集めて、非合理を保存させる構造だからです。
すなわち、現実と矛盾した、奇妙なお作法を受け入れられる信者を多く集めるほど、それは障害を乗り越えてしまうエネルギー(≒確率)を高めてしまいます。だからこそ、ボクシングを含めた社会には、いつまでも奇妙なお作法が残っているのだろうと僕は推理しています。
「イエスと絵は異なる対象である」と認知できるなら、そもそも宗教はやらないだろうし、仮にそうしたとしても踏み絵により捕まることはありません。
結論。
「踏み絵で信者をあぶり出す」なんて、バカげた戦術が機能してしまう構造が宗教。
パラノイアに取り憑かれた、矛盾をものともしない信者がそれを保存する役目を果たす。
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